つらつらと

3月2日 くもり 強風吹くがまだ雨降らず。

きょうはつらつらと書く。
強い風は雨戸をバタバタと鳴らし、室内のガラス戸やふすまはその度にその振動(圧)でガタガタと音を出す。
いかに我が家が隙間だらけの古い建物であるかがよくわかる。
わたし自身が体質の変化や加齢で冷え性になったのもあるが、重ね着をしても暖房しても一向に寒さから逃れられないというのは、建物の構造にも一因があるのだ。家賃は世間並だが、冬場の光熱費を見れば相当な負担であり、ご近所の今どきのマンションやアパートの方が総合的に考えれば安い家賃ではないかと思う。1月の電気ガス料金の請求書を見て、相方が支払っている電気代を抑える為、隣室にあるエアコンの使用を止め、暖房は常時居る部屋の電気ストーブ一台にした。最近になって少しばかり暖かくなってきたが、それでもわたしの朝晩の入浴は否めず、これはわたしの支払いになっているので、桜散る頃までは続くと思う。

そして思う。
わたしが子供の頃、もう50年以上もむかしの事。間借りした寺の庫裏には囲炉裏があって、寺で法事や集まりがあった時はそこで火を焚き、湯を沸かしたり暖を取ったりしたのだろうが、わたし達が住むようになってからは囲炉裏に板の蓋をして、その上にコタツを置いた。貧しい生活の中でそのコタツをどうやって手に入れたのかは知らないが、多分知り合いから譲り受けた物と想像する。裏山に墓地はあったものの、僧侶無き無人寺で、わたし達が暮らしている間に葬儀らしき事があったのは一回きりだったと記憶している。そんな時はわたし達の存在や生活は施主や役務めの檀家からすれば邪魔であったので、子供だったわたしは生活の場だったその部屋の外で仏事が終わるまで待っていたのを思い出す。小さな山村地区だったので参列した人達の中に顔見知りや友達の姿があったりして、その態度や言葉から、傍の人から自分たち母子がどう思われ見られていたかを知った。此処でも同じだったというより、わたし達母子は元々普通では無かったのだ。

P4050044.jpg


土間のブリキバケツに井戸水を運び、飲み水や料理に使い、洗濯板で洗濯をし、風呂は親しくしていた近所の家でたまに貰い湯が出来た。それでも貰い湯は肩身が狭く、ブリキバケツを沸かしてタライで入浴する事もあった。母は当時近くの温泉場で仲居をしていたが生活は貧しく、食べる物にも不自由していて、知り合いから古米を安く譲って貰ったり、墓地の周りの山谷で山菜を採って食べていた。卵や赤いウインナーなどは家に無く、当然弁当などは持って行けず、図書室で時間を潰したり山伝いに家に帰り、冷ご飯を飲み込んで急いで学校に戻るような事が多々あった。この時代を知って居る同級生に35年振りに再会した事があった。その同級生の話によると、当時、自分の娘さんのお下がりを下さったりしてくれた女性の先生がいらっしゃったらしい。中学の制服やカバンも娘さんの物をその先生から頂いたのだと思う。その記憶が消えていたのは、自分の惨めさを感じ取られたくなくて、自身も認めたくなかったからか。「死」という言葉を身近に思い始めたのはこの頃と思う。

話はだいぶ逸れたが、この頃の寒さは記憶にない。綿入れを着て、多分手は赤くなっていただろうが、とにかく貧しさの方が辛かったからだと思う。風が強く吹く日につらつらと。